1899年~1919年 誕生から思春期

ヘミングウェイの生い立ち 1899年~1919年 誕生から思春期 ヘミングウェイの人格が造られた親とその環境

1899年(明治32年) 7月21日 
アメリカ合州国イリノイ州シカゴ市の現在は国際空港の近くになる住宅地オ-ク・パ-ク(当時はシカゴ市とは別個の行政都市)で、医師であった父クラレンス・エドモンド・ヘミングウェイと母グレイス・ホ-ル・ヘミングウェイの第二子としてして誕生しました。ア-ネスト・ミラ-・ヘミングウェイと命名されます。兄弟は姉一人、弟一人、妹三人の六人兄弟の長男として生まれました。なぜか母親は男の子を欲しがらずに、ヘミングウェイが4歳ごろまでいつも女の子のような恰好をさせられていたといわれています。そんな幼少時期を過ごしていたヘミングウェイは、「男らしさ」にこだわる人生を送っていくのも分かるような気がします。
女の子が欲しかった母親は、音楽と絵画制作が大好きで、声楽家として生徒に教えるほどの腕前だったと言われています。母親も女である。ということにこだわり、その女である分身であると思える女の子が欲しかったのではないかと考えられます。
父クラレンスは禁酒禁煙で勤勉という保守的なプロテスタント。もちろん母も厳格なクリスチャンというお堅いお家で生まれたんですね。やや富裕な典型的中産階級の家庭環境とでもいうべきかもしれません。
自由奔放に生きるヘミングウェイ。を母親は認めることはもちろん、受け入れることもできずにヘミングウェイと絶交することになります。その絶交した関係は最後の最後まで修復されることはなく、母親が亡くなったときもその葬儀には出席しませんでした。
保守的なプロテスタントの父親でしたが、釣好きな一面があり父親からアウトドアの基礎を身に着けることが出来ました。

書を捨てよ、町へ出よう
1901年(明治34年) 2歳 
シカゴからミシガン湖沿いに北上したミシガン州北端部にあるウォル-ン湖畔に別荘を購入し、毎夏をここで過ごすようになる。父はここで子供達に水泳、釣り、乗馬、猟の手ほどきをする。 やがて父親と二人だけの旅行に行ったといわれています。
1906年(明治39年)7歳 
ヘミングウェイ家はオ-ク・パ-クに家を新築。母グレイスの実家は19世紀後半にシカゴを拠点に国際的な取り引きで成功したビジネスマン一家でした。その創業者の祖父の死に伴う遺産が入りました。
1909年(明治42年)10歳
ヘミングウェイ初体験。相手はオジブワ先住民子孫の娘といわれています。その女性は黒髪の綺麗な女性だったとも。そして、10歳の誕生日に父親より初めて本物の猟銃をプレゼントされ、ウォル-ン湖の別荘にて射撃や狩猟の手ほどきを受け、夢中になる。
1913年(大正2年) 14歳
母親の指導でほぼ毎日続けていたチェロ練習に飽きてきた一方、オーク・パーク高校に入学した彼は、いろいろなスポーツでその才能を発揮し始めます。 ボクシングに興味を持ち、シカゴのボクシング・クラブに入門。アメリカン・フットボールにも夢中になりますが、団体競技にはむかなかったようです。個人種目の水泳や陸上、ボクシングなどでは大活躍。そして、なかでも最も得意だったのが射撃でした。これもまた、後の彼の趣味のひとつとなり、さらには戦場へと向かうことを恐れない彼のその後の人生を暗示してもいました。彼はスポ-ツを通して肉体にかかる負荷に耐え撥ね退ける、不屈の精神力の養成に精を出すことになりました。また将来は医者になることを考え、父親の診察光景を眺めたりもしていました。しかしこの頃から文芸世界にも興味を持ち始めることになります。シェークスピアやディケンスなどの古典を読み始めていきます。
1916年(大正5年)17歳   
初めて短編小説らしきものを書き、学内季刊文芸雑誌「タビュラ」に3編を発表した。また学内週刊新聞の編集スタッフとなり、ほぼ毎週のように寄稿した。しかし文学やジャーナリズムに傾倒することを不道徳なことと考える両親との関係は悪化するばかり。そんな親への反発からか、短期の家出を繰り返します。
1917年(大正6年)18歳
第一次世界大戦。この年の4月にアメリカ合州国も参戦。5月の卒業式直前に父親の強い反対を押しきってまでヨ-ロッパ派遣の兵役に志願したが、身体検査でボクシングによる左目の障害が判明し不合格。しかしオ-ク・パ-クの実家からの脱出意欲はますます高まり、秋にはミズリ-州カンサス・シティ-に本社のある「カンサス・シティ-・スタ-」新聞の記者としての職を得て転居して、念願の実家からの脱出に成功し、独り暮らしを始める。記者としての約半年の体験でしたが、ここでプロとしての物書きの心構えや表現したいものを伝える「文体」意識を持つようになったとされている。
1918年(大正7年)19歳
4月に「カンサス・シティ-・スタ-」社を辞職し、イタリア軍付赤十字要員募集に応募。こちらには合格。5月末には海路ニュ-ヨ-クを出発して6月にはミラノに到着。従軍を果たします。7月8日夜、北イタリア前線フォッサルタ村での戦闘での負傷者輸送中に敵の迫撃砲攻撃か機銃掃射で被弾し、脚部に227もの破片を受ける負傷で翌日朝からミラノ陸軍病院に3か月入院。ここで看護婦として働いていたアグネス・フォン・クロ-スキ-と恋愛関係に陥ります。この間の体験が後の小説『武器よさらば』の背景となる。退院後は中尉待遇となり10月には再びイタリア軍と戦線に出るが、11月には休戦となったことを機会にアメリカへの帰国を考えます。この参戦時の功績により1921年にイタリア政府より勲章が授けられました。
1919年(大正8年)20歳
1月にオ-ク・パ-クに戻りましたが、両親と和解することはありませんでした。秋にはミシガン州北部の毎夏を過ごしたウォル-ン湖近くにあるペトスキ-に移り、ここで短編習作に取り組むが、戦場で負傷した時のショック後遺症で暗闇の中では眠れない日々に悩まされ、翌年1月までに脱出を考えるようになります。
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