1927年~1939年 作家として地位を確立

流行作家ではなくベストセラー作家へ 1927年~1939年 ポ-リン・ファイファ-と2回目の結婚

1927年(昭和2年)28歳
1月にかねてから別居中だった妻エリザベスと正式離婚。春に「エグザイルス」誌創刊号で詩『新ト-マス派の詩』を発表。3月には短編『殺し屋たち』を「スクリブナ-ズ・マガジン」に発表。続いて『もうひとつの国で』も「スクリブナ-ズ・マガジン」に掲載されます。この夏、雑誌「ヴォ-グ」のパリ駐在記者で服飾評論家のポ-リン・ファイファ-と再婚、熱心なカトリック信者であった彼女のためにカトリックにも改宗しました。離婚→再婚。再婚に伴い、改宗(ヘミングウェイの家はプロテスタント)はヘミングウェイ家の伝統ではかつてなかったことであり両親は驚きました。10月には2作目の短編集『女のいない男たち』が出版され、約8000部を売ることになりました。そして年末には『日はまた昇る』の英国バ-ジョンが『フィエスタ』のタイトルで出版されます。
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1928年(昭和3年)29歳
3月からパリで小説『武器よさらば』を起稿します。そして、ここでパリでの修業時代に終止符を打ち、フロリダ州キ-ウエストに新居を構えます。ホワイトヘッド通り907番地にあるヘミングウェイの邸宅は、現在、キーウエスト観光の目玉となっています。ヘミングウェイの猫好きは有名で、ココヤシとバニヤンの繁る広い庭には、いたるところで猫たちが昼寝をしていました。青々と水をたたえたプールは、外出しがちな夫を家に留めておくために、2番目の妻ポーリンが1937年に注文し造られたものです。しかし、その年には後に3番目の妻となるマーサ・ゲルボーンとの関係がすでに始まっていました。新しい女性とも出会い、今まで気候の厳しい土地で住んでいたヘミングウェイにとって、初めて海を知った最果ての島、それがキーウエスト。この家はプ-ル付き白亜の二階建て建築で1940年まで住みました。また初めてキュ-バを訪れ、キューバの海とその環境ににとても魅了されました。6月に次男パトリックが誕生しますが、妻ポ-リンは帝王切開を伴う大変な難産でした。8月末にはワイオミング州ビッグ・ホ-ンで『武器よさらば』を完成させます。12月6日に父親クラレンスが糖尿病と借金を苦にピストル自殺。自殺に使った銃はクラレンスの父(即ちヘミングウェイの祖父)の遺品だったもので、この行為は清教徒グル-プの一員として1634年に移民してきた先祖への冒涜と考え自己中心的だとも語る一方で、父の自殺したこともヘミングウェイが両親に反抗してきた自分自身の鏡像と重なり宿命的なものを感じるようになります。自殺まで父親を追い込んだ母親グレースを非常に憎むようにもなりました。しかし結局ヘミングウェイ自身も父の死をなぞる形で自殺しましたが。
1929年(昭和4年)30歳
世界大恐慌が始まる年。 「スクリブナ-ズ・マガジン」誌5月号から10月号に『武器よさらば』を連載。9月に単行本として出版されるや1月で31000部を売り切り、4か月で8万部を越えました。アメリカ人将校とイギリス人看護婦との出会いから悲劇に終わる恋愛模様を乾いた文体で描き、作家としての地位をこの作品で確立しました。またこの年は最後の詩作『バレンタイン』を「リトル・レビュ-」誌に発表した後、またスペイン旅行に出かけます。
1930年(昭和5年)31歳
11月にモンタナ州に狩猟に出かけた際、自動車事故で入院。
1931年(昭和6年)32歳
夏前にスペインを旅行。8月はパリに滞在する。9月にはまた三男グレゴリ-が誕生。
1932年(昭和7年) 33歳
1月より闘牛論とも闘牛の入門書とも呼ばれる研究作『午後の死』を脱稿。9月に初版約1万部が発行されます。
1933年(昭和8年) 34歳
9月よりマドリッドに滞在。10月に第三作目の短編集『勝者には何もやるな』約2万部を出版。11月から夫人同伴で東アフリカ狩猟旅行に出かけます。またハリウッドで『武器よさらば』(邦題「戦場よさらば」フランク・ボ-ゼ-ジ監督、ゲイリ-・ク-パ、ヘレン・ヘイス主演)が映画化されました。
1934年(昭和9年) 35歳
1月、まだ日程途中のアフリカ旅行中にアメ-バ性赤痢にかかる中でも3月までアフリカ旅行を敢行。4月にニュ-ヨ-クに戻る。小説『持つと持たぬと』の第一部『ある渡航』を雑誌「コスモポリタン」に発表。アフリカでの狩猟体験から一転して今度は海に挑戦するためトロ-リング用パワ-ボ-ト「ピラ-号」を建造します。さっそくホームベースを置いてあるキ-ウエストからバハマ諸島に出かけ、大物釣りの醍醐味と勝利の感覚を味わいます。210キログラムを越えるマカジキをつったことが自慢していたのもこの頃です。そしていわゆる海の三部作の構想が始まります。
1935年(昭和10年)36歳
雑誌「スクリブナ-ズ・マガジン」5月号から10月号にかけてアフリカの狩猟旅行記『アフリカの高原』を連載執筆。10月には単行本『アフリカの緑の丘』にまとめて1万部を出版。
1936年(昭和11年)37歳 
3月に『持つと持たぬと』第二部『商人の帰還』を「エスクワィア」誌に発表。7月にスペイン市民戦争が勃発すると早速共和国政府軍支援の資金調達に奔走。アフリカを題材とした短編『キリマンジャロの雪』を「エスクワィア」誌8月号に発表。また「コスモポリタン」誌9月号にも女性への敵意を明らかにした短編『フランシス・マッコ-マ-の短くも幸福な生涯』も発表。
1937年 (昭和12年)38歳
1月より「アメリカ・スペイン民主主義友好協会」を主宰。2月末に「北米新聞連合」協会(NANA)の特派員として内乱中のスペインに渡ります。翌月には共和国政府軍と合流し、バルセロナ、バレンシアなどを転戦。ここでJ・イフェンスらと共にスペイン市民戦争の記録映画『スペインの大地』に製作協力します。またフランス人アンドレ・マルロ-やロシア作家イリヤ・エレンブルグ等とは共同取材活動を通じて親交も生まれ、やがて雑誌「コリア-ズ」の特派員としてスペインに滞在していた女性作家マ-サ・ゲルホ-ン(三番目の妻)と恋愛関係になります。5月に帰国すると、6月開催の第二回全米作家会議で『作家と戦争』について演説。7月にはF・D・ロ-ズベルト大統領の招待晩餐会で記録映画『スペインの大地』を公開し、その解説をしました。8月には再びNANAの特派員としてスペインに渡り、12月には混乱のマドリッドで三幕劇『第五列』の執筆に集中。この間、10月には貧富の差や時代の流れを変えることのできない個人の無力感とそれでも希望を失わない視点でかかれた社会小説『持つと持たぬと』が出版されすぐに1万部を売り切るベストセラ-となりました。またかつて恋愛関係あった、マ-サ・ゲルホ-ンとの再会を果たしました。
1938年(昭和13年)39歳
1月に帰国しましたが、すぐ3月にスペイン行きます。そして5月に帰国。また9月にスペイン行きと、多忙な移動生活を送る一方で、6月には映画脚本『スペインの大地』1000部出版、10月には戯曲・短編集『第五列及び最初の四十九の短編』5000部を出版。『第五列』はスペイン市民戦争を舞台にした唯一の戯曲作。そして短編で見いだされる暴力主題を扱いながらも倫理的判断を加えず短い文章を基本とするドライな「ハ-ド・ボイルド・スタイル」の確立は、スペイン市民戦争の体験や再び世界大戦の再燃が予兆される非情な現実と、第一次世界大戦の虚無体験から出発した世代の精神的表明ともいえるでしょう。
1939年(昭和14年)40歳
3月にフランコ軍事政権側の勝利という結果でスペイン市民戦争が終結。この時よりキュ-バのハバナ市に移り、ホテル・アンボスを拠点に『誰がために鐘は鳴る』の執筆を開始。このホテルから歩いて行けるバ-&レストラン「ボデギ-タ・デル・メディオ」ではキュ-バ生まれのカクテル「モヒ-ト」を、そして「フロリディ-タ」では「ダイキリ」を愛飲した。この「フロリディ-タ」の店主でありバ-テンダ-となったコンスタンテ(コンスタンティノ・リバライグア・ベルト)との会話からシャ-ベット・タイプのダイキリ・カクテル「パパ・ヘミングウェイ」も考案し、これをダブルで一晩に12杯は飲んでいたという伝説も生まれた。9月に第二次世界大戦が勃発。
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