1920年~1926年 親からの独立

●ヘミングウェイ親からの独立 1920年~1926年 売れない時代を支えてくれたリザベス・ハドリ-・リチャ-ドソンと1回目の結婚 ●

1920年(大正9年)21歳
1月にカナダのオンタリオ州トロント市へ移り、「トロント・スタ-・ウィ-クリ-」誌や「トロント・デイリ-・スタ-」新聞の特集読物担当記者として5月まで滞在します。再びオ-ク・パ-クに戻りましたが、両親との関係は凍結したまま。秋にはシカゴ市に出て「シカゴ・トリビュ-ン」新聞の事件記者を体験した後、「アメリカ消費組合」機関誌の編集スタッフとなります。この冬に作家シャ-ウッド・アンダ-ソンと知り合い、文学のシカゴ・ルネッサンス・グル-プとのつき合いも始まる。また8歳年上の女性ピアニスト、エリザベス・ハドリ-・リチャ-ドソン(最初の妻)との恋愛関係が始まり、創作意欲も高まる。
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1921年(大正10年)22歳
春に「アメリカ消費組合」を退社後、再び「トロント・スタ-・ウィ-クリ-」誌への寄稿を始め、ようやく署名入り記事が書けるようになりました。9月3日にはエリザベス・ハドリー・リチャードソンと結婚。トロント市に新居を構え、新婚生活を送りました。11月にイタリア政府より叙勲を受けたことをきっかけに12月には「トロント・デイリ-・スタ-」紙と「トロント・スタ-・ウィ-クリ-」誌の両特派員としてスペイン経由でヨーロッパへ渡欧。夫婦でパリのカルディナル・ルモワンヌ74番地の古い5階建てアパ-トの一室で生活するようになりました。ここからヘミングウェイのパリでの生活が始まります。
1922年(大正11年)23歳
シャ-ウッド・アンダ-ソン(3月にかつてシカゴで知り合った)の紹介状を持ってアメリカ人女性作家ガ-トル-ド・スタインを訪れ、詩人・批評家エズラ・ル-ミス・パウンドとも知り合い、この二人とは以後、随時詩や短編の批評を仰ぎ、文体や表現技法を学ぶ仲となりました。仕事としてはジェノア経済会議(3月)の様子を報道して、妻エリザベスと北イタリアを旅行します。5月にはニュ-・オリンズ発行の「ダブル・ディ-ラ」誌5月号に寓話的短編『神々の身振り』を発表、続く同誌6月号には詩『終焉に』も掲載されました。9月にはギリシャ軍に従軍し、ギリシャ・トルコ戦争の報道に従事した後、11月にはパリに帰ってロ-ザンヌ講和会議の模様を報道。クリスマス直前に妻エリザベスとロ-ザンヌに向かう途中のリヨン駅で書き溜めた詩30、短編18、長編小説1の入ったス-ツケ-スを盗まれてしまいます。
1923年(大正12年)24歳
シカゴの詩誌「ポエトリ-」1月号に『さすらい』と題した詩6編が掲載され、また4月には「リトル・レビュ-」誌にも超短編6作と詩1編が掲載されます。パリで『三つの短編と十の詩』というタイトルの本を初めて出版(7月の誕生日)することができました。初版300部という小規模なものでしたが、24歳という若き人生のひとつの節目にはなります。9月には妻エリザベスとトロントに戻り、10月に長男ジャック(女優マ-ゴ・ヘミングウェイの父)が誕生しますが、今度はジャーナリストではなく、作家としてパリに留る決意をし、12月に「トロント・デイリ-・スタ-」社を退職します。
1924年(大正13年)25歳
「トロント・デイリー・スター」社を辞めたヘミングウェイは1月にパリに戻ります。いわゆる「パリ修業時代」が始まりました。定職として、フォ-ド・マドックス・フォ-ドが創刊した「トランスアトランティック・レビュ-」誌の編集スタッフという仕事に就きます。3月頃とされていますが、ウィリアム・バ-ド社主のスリ-マウンティンズという地下室で手刷りの限定版をてがける出版社から小品18編を集めたパリ版『我らの時代に』を出版。初版170部32頁という小冊子でしたが、アメリカの批評家で小説家でもあったエドムンド・ウィルソンが注目し、書評を「ダイアナ」誌10月号に発表します。4月には短編『ワ-ク・イン・プログレス』(後に『インディアン・キャンプ』と改題発表)が「トランスアトランティック・レビュ-」誌にも掲載されました。その年の夏にスペインを旅行。旅先で見たパンプロ-ナで闘牛に魅せられます。この体験が後の作品『日はまた昇る』に反映されます。11月には「クベ-ルシュニット」誌にも詩4編が掲載され、12月には『医師と医師の妻』も発表した。修業時代としては幸運なスタ-トをきったといえるでしょう。
1925年(大正14年)26歳
2月に詩『時代の要求』を「ク-ベルシュニット」誌に発表。5月には短編『二つの心を持つ大きな川』を「ジス・クオ-タ」創刊号に発表。この頃に、パリに来たフランシス・スコット・キ-・フィッツジェラルドと知り合います。その頃すでに有名人であったフィッツジェラルドを通して、その輪はマルコム・カウリ-、ジェ-ムス・ジョイス、ドス・パソス等とのつきあいに広がっていきます。そして7月前にドイツ語に訳された短編『闘牛』(後の『敗れざるもの』の元)をやはり「ク-ベルシュニット」誌に発表した後スペインに渡り、7月の誕生日にバレンシアで小説『日はまた昇る』執筆に着手、パリに戻った9月には第1稿を仕上げます。10月にはアメリカ版『我らの時代に』1335部が出版された。この作品は簡潔な文体で作者自身の投影である少年のトラウマ体験を描き、ヘミングウェイ文学の原点といわれています。フィリップ・トインビ-やD・H・ロ-レンスなどの賞賛を浴びた。11月には中編『春の奔流』執筆に取りかかります。
1926年(大正15年/昭和元年)27歳
4月に『日はまた昇る』を脱稿。5月には後に書き始めた『春の奔流』1250部が先に出版されます。10月に『日はまた昇る』が出版されますが、10月の発売からわずか2か月で約26000部を売り切るベストセラ-となり、ヘミングウェイは一躍有名作家となります。この作品は第一次世界大戦の戦争体験から旧世代の価値観や世界の在り方に絶望し、生きる意味を見い出せずに、アルコ-ルやセックスに走る刹那的生活を送る「失われた世代」(『駄目な若者たち』という含意)の生態を描き、一躍同世代を代表する作家となりました。
名作にまどろむ